思考志向

『「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」』という記事を読んでみてください。

「不老不死」の技術が実現するまでに起こる社会の変化

 「不老不死」の技術が実現した後の世界は、これまで多くの小説や映画、漫画などの作品で取り上げられてきた。そうした作品では、不老不死が実現することで、個人の生活はどう変わっていくのか、社会はどのようになっていくのか、そもそも不老不死は人間にとって本当に望ましいのだろうか、といったことがテーマとなることが多い。SF作品に限らず、不老不死に関わることはよく話題にされる。

 

 不老不死が題材として取り上げられるとき、たいていその不老不死の技術は完全に確立されたものであることを前提として話が進んでいく。一方で、まだ未完成で少しずつ不老不死が実現していくという過程においても、その時期に特有の事柄が起きるのではないだろうか。この記事では不老不死が実現していく過程での社会の変化について考えてみたい。

 

 まず、不老不死の技術が急に出来上がるということは考えにくい。まずは、寿命を延ばす、老化を遅らせる、若返らせるといった技術が開発されることになるだろう。(今後はこうした技術を、「不老不死の技術」と対比して、「延命の技術」と呼ぶことにする。)はじめは、一生の間で寿命が延びたり老化が遅れたりする期間の限界が5年や10年ほどだったのが、時代が進むにつれその期間が少しずつ伸びてゆくことになる。そしてかなり平均寿命が引き伸ばされた段階でさらに技術が進んでいって初めて不老不死が実現されるだろう。ちなみにここで使っている「不老不死」という言葉は不死身という意味ではない。不老不死でも事故にあうと死んでしまう。あくまで半永久的に生きられるということだ。

 

 延命の技術として考えられるのは、再生医療や臓器の移植、遺伝子の書き換え、老化に効く薬などだろう。いずれにしても医療と深く結びついている。

 

f:id:aoja:20170601235731j:plain

 「不老不死」技術が実現するまでに起こる社会の変化

 これまで、寿命の引き伸ばしや若返りに関する本格的な医療技術がなかった時代に、初めてそうした延命の技術が出てきたとする。ここでは目安として寿命が10年延び、10年若返る技術だとする。多くのことに当てはまるが、世の中に初めてで出てきたような技術や製品はとても高額だ。特に延命の技術に関しては費用は莫大なものになるはずだ。また、健康保険も効かないかもしれない。そうなってくると、この延命の技術は基本的には一部のお金持ちのみが恩恵を得られるものになる。

 

 ただ当然、庶民であっても生きることと若さに強くこだわる人は多い。そういう人は借金をしなければ、延命の技術を受けることができない。その技術が例えば何千万円もするのだとすれば、お金を借りるのにも返すのにも当然苦労する。ただし、寿命が延びて若返る訳だから、その分の期間は長く働くことができ、その長く働いた分だけさらに返済に充てることができる。働ける期間が延びることも考えれば、延命の技術を受けるハードルは少し下がるだろう。そうは言っても、この技術もまだ世間の信用がなく、必ず長く働くことができるという保証がないため、銀行もなかなかお金を貸してくれないかもしれない。

 

 時代が変わって、この延命の技術がある程度進み、延びる寿命もさらに増え、若返りの質もよくなったとする。最初にこの技術が世に出て20年か30年たった時代といったイメージだ。この時期になるとこの技術も次第に世間に信用されてきているはずだ。もしかすると、今の時代に住宅ローンがあるように、「延命の技術専用のローン」もできているかもしれない。費用も下がってきているため、この技術を受けることができる人も増えてきているだろう。

  

 そしていよいよ不老不死の技術が完成した時代になったとする。この時代にはすでに延命の技術はかなり普及しているはずだ。新技術ということで不老不死になるには莫大な費用が掛かることだろう。不老不死の技術がこれまでの延命の技術の延長線上にあるようなものであれば銀行の信用を得やすいが、全く新しい技術だとしたらなかなか信用を得にくく、不老不死の技術を受けるという理由ではお金を貸してくれないかもしれない。ただ、いったんお金を借りることさえできれば、不老不死なのだからしばらく働いて少しずつ返済していけばよい。いずれは返済できるものなので、不老不死を強く望んでいる人にとってはお金についてはそこまで大きな問題ではないかもしれない。

 

 さらに、不老不死の技術が完成してしばらくたったとする。不老不死技術の精度が上がり、失敗もほとんどなくなる。不老不死技術の安定期といってよいだろう。この時期になれば、望んだ人であれば誰でも不老不死の技術を受けられるようになっているかもしれない。不老不死技術の費用が下がり、この技術に対する信用も高いために銀行からもお金を借りやすい。延命の技術専用のローンがあったのと同じように、「不老不死ローン」もできているかもしれない。

 

 「不老不死」を得るための個人の戦略

 これまでは社会の変化を見てきたが、不老不死を望む個人の視点としてはどのようにして不老不死を目指してゆくだろうか。いまだ不老不死が実現していない社会においては、自分が生きている間に、科学技術が進展して不老不死の技術が実現することに期待するはずだ。ただ本気で不老不死を目指す人にとっては、不老不死技術が進展することを望むだけではなく、逆に不老不死技術が実現するまでにいかに自分が長生きできるかを問題とするはずだ。

 

 長生きする手段は2つ考えられる。1つは、地道に運動やバランスの良い食事などで健康を心がけることで、もう1つは、延命の技術を受けることだ。不老不死を望む人はこの両方を取り入れるだろう。普段から健康に気を使いながら、新たな延命の技術が出てきたときにはその技術を受ける、というようにするはずだ。常に最新技術を受けられるようにお金も貯めていなければならない。このようにして寿命を延ばしながら、生きているうちに不老不死の技術が完成するのを待つのだ。

 

 そして不老不死を望む人にとっては、ある延命の技術Xが開発されてから次の延命の技術Yが開発されるまでの期間が問題となる。

 

[延命の技術Xによって延びる寿命]>[延命の技術Xが開発されてから次の延命の技術Yが開発されるまでの期間]

 

 もしこの不等式が成り立つとすると、時間が経っているにも関わらず、延命の技術Xを受ける直前より、延命の技術Yを受ける直前の方が余命が延びていることになる。そして、次の技術もさらに次の技術にも同じようにこの不等式が成り立つとすると、新たな延命の技術を受け続けながら寿命を延ばすことが出来る。さらにそれがしばらく続いたとすると、不老不死技術が完成した時代まで生きることが出来る。いったんこの不等式が成り立ちそれがずっと続くとすると、事故にあわない限り、半自動的に不老不死を獲得することが出来る。

 

 私たちの世代が生きている間には、不老不死の技術が実現するとは到底考えられないが、延命の技術が開発される可能性は多少はあると考えてよいだろう。そして不等式が成り立つほど延命の技術革新が進むかどうかは分からないが、実際に不老不死を手に入れることは、私たちが想像するよりもっと現実的なことかもしれない。

 

理想の社会を実現するには自分はどういう人間になればよいか

 理想的な社会を実現するためには自分はどういう人格の人間になればよいだろうか。ぼんやりとなら、その人間像や人格が思い浮かんでくる。例えば、嘘をつかないとか、人に親切にするなどだ。ただこの記事では、具体的にどういう人間像が社会にとって理想か、といったことに触れるつもりはない。社会をよりよくするために、どういう人間になればよいかを考えるための道筋にはどういったものがあるのかを、抽象的にかつ仮想的に考えてみようと思う。

 

 そもそも理想的な社会がどういうものなのかについては簡単に答えの出るものではないが、仮に特定の理想的な社会像があると仮定して話を進めることにする。ここでは、大まかに誰もが幸福を感じており、苦しみも最小限度である社会が理想だといったイメージでよいだろう。そして、その理想の社会に近づくにはどのような人間になればよいかを考える。

 

 

 理想の社会が定まっている場合の、理想の人格像を定めるプロセスはいくつかの種類が考えられるのではないか。ここではABCの3種類を挙げてみる。

 

A 現実の社会の状況はいったん置いておくとして、「このような人格の人間が増えればよりよい社会になるだろう」という理想のかつ普遍的な人格像を作り上げる。そしてその理想の人格に自分を近づけるようにするというものだ。すべての人がその理想の人格になった場合、最も社会がよくなるように理想の人格を設定する。

 この場合、この理想の人格はだれにとってもおおよそ同じようなものになり、時代によって大きく変わることも少ない。また、理想の社会像と理想の人格像が似たようなものとなる。

 

B 今現在の社会の現状を前提として、その現実に対して自分がどういう人格の人間になれば社会が最もよくなるかを考え、その人格に自分を近づけるようにする。すでに社会で人格を持った人たちが生活している中で、自分を追加の1人とみなす。その追加の1人として、最も社会がよくなるような人格を採用する。

 この場合は、なるべき理想の人格は時代や社会の状況によって流動的になる。また、理想の社会像と理想の人格像に大きくズレが生じる可能性がある。

 

C 上の2つとは大きく毛並みが異なるが、ここではすべての人の人格をすべてコントロールできると仮定する。それぞれの人に種類の異なるさまざまな人格を付与していき、すべての人格の集合を仮想する。その人格の集合を可能なだけの組み合わせをスーパーコンピュータ(?)などを使ってすべて羅列して、それぞれの人格によって作り上げられる社会をシミュレーションし、その中で最も社会が理想の状態に近づく組み合わせを採用する。あるいは、すべての組み合わせをシミュレーションしないまでも、それぞれの人の性質を考慮しながら、最も理想的な社会が実現される人格の組み合わせを複雑な計算によって導き出してもよいかもしれない。

 

 

 Cは、社会を理想的な状態にする最も効率的な方法の1つを試しに考えてみたというものであって、非現実的なことなのであまり考えないことにする。AとBは、現実の社会でもこれと似たような考え方がされているのではないだろうか。

 

 AとBの違いが分かりにくいので、社会を超巨大な船、社会に生きる人々をその船の乗組員としてたとえてみる。船は転覆せずに安定していられることが理想だが、最も船が安定的な状態が社会の理想像とする。乗組員たちは船の上のそれぞれの場所に立っている。もし、乗組員が船の片側に偏って立っていると、船は傾き安定しない。

 

 まずAの場合を考える。全員が船の中心付近に集まると船が安定するということを考えると、船の中心にいることが理想ということになる。このとき、他の乗組員がどこにいるのかはあまり関係ない。

 

 Bの場合は、すでに他の乗組員が立っているわけだが、その乗組員たちがどこにいるかを見て、乗組員が多くいるところとは反対の最も船のバランスがとれるところに立つことが理想ということになる。もし他の乗組員が移動し始めたら、自分も動いて船が安定するように調節する必要がある。Aは理想の人格像がほとんど変わらないものであるのに対して、Bは時代や時と場合によって変わる流動的なものだといえる。

 

 Cの場合は、これから来るであろう波や風雨をすべて計算し、乗組員の体重や重心も考慮した上で、それぞれの乗組員の配置がどうなればよいかを導き出してゆく。あるいは乗組員のあらゆる配置のパターンをすべてシミュレーションして、最も安定的な配置を採用する。このとき乗組員が中心に集まるのか、ある程度散らばるのかは計算をしてみなければわからないだろう。

 

 

 この船のたとえを使うと、より船の安定に貢献してそうなBがより正しいような印象を受けるが、Bにも難点がある。もし社会の理想が真ん中にあるとして、多くの人は右に偏っているとする。社会の理想が真ん中なのだから個人の人格の理想も中心に近いところにあった方がよいはずだ。しかしBの場合は、バランスをとるために極端に左に偏る必要があり、社会の理想と大きくズレた人格を保つことを強いられてしまう。例が適切かどうかわからないが、今の話を政治的な右派と左派でイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。

 

 現実の社会では、このAとBの両方の要素が混ざっていることが多いだろう。教育の世界ではA的な考え方に基づいていることが多いような気がする。個人のレベルで、どういう行動をするべきか、どういう人間になればよいかを考える時には、どちらかというとB的な考え方をしていることが多いのではないだろうか。

 

 

 

心のケアの分配と「富の再分配」

 精神的に打たれ強い人は、少し落ち込んでいたとしても慰めてもらいにくい。逆に精神的に弱い人は、慰めてもらったり気にかけてくれることが多い。メンタルが弱い人は強い人よりもより苦しい思いをしているわけだから、メンタルが弱い人がより気にかけてもらうのは自然なことだ。メンタルの弱い人が常に気にかけられてしかるべきだろう。

 

 ただ一方で、メンタルの弱い人ばかりが同情してもらえるというのは、メンタルが強いことが推奨されていないということでもある。メンタルの弱い人ばかりが気遣ってもらって、精神的に強い人は気にかけてもらえないために、精神的に強いことが大して得にならなくなってしまう。精神的にあまり強くない人は、人に気にかけてもらえるという恩恵を得られるが、精神的に強い人はその恩恵を得られにくいからだ。もちろんメンタルが強いのと弱いのとでは、強いほうが得だろう。しかし、メンタルが強いことと弱いこと自体から得られる利益と損失を除いて考えると、メンタルが弱いほうが得したことになっている。

 

 本来、精神的に強く、ストレスにうまく対処できることは、だれもが望んでいることであって、もっと推奨されてもよいことだ。ストレスに強い人が、ストレス耐性があること自体による恩恵以外にもさらに別の恩恵を受けることができるならば、ストレス耐性を身に着けることのさらなるインセンティブになる。しかし実際には、メンタルが弱ければ弱いほど気遣ってもらえて得をする、という逆方向の働きを持つ。

 

 ここで言っている精神的に強いというのは、どんな困難でも跳ね返すような鋼の心をもつというような意味では必ずしもない。ストレスとうまく付き合ったり、ネガティブになりすぎないようにするといったような意味だ。こういう意味での精神的な強さは、意識的に生活したり精神的に強くなる方法を学ぶことで少しづつでも身についていくだろう。もっと多くの人が、こうした精神的な強さを身につけるように努めたほうが、もっと楽に生きられる社会になるはずだ。そうだとすれば、こうした精神的な強さを身に着けることで、それ自体から受ける利益以上の利益が得られるようになり、多くの人がその強さを身に着けるようになればよいだろう。

 

 もし人が、悩んでいる人にいくらでも気遣うことができるなら、メンタルの弱い人にはこれまでと同じように慰めて、メンタルの強い人にもメンタルの弱い人にしているのと同じくらいに慰めればいいだろう。しかし、他人に対する同情に限界がある場合はどうだろうか。実際は、いくらでも人に気遣いをするということには限界がある。仮にこうした他人への心のケアの量は一定であるとして、その心のケアを精神的に強い人、弱い人にどういう比率で分配すればよいだろうか。

 

 

 この問題は、経済や政治の世界で常に議論されている「富の再分配」の問題と似ている。例えば、累進課税によって高所得者の所得の一部を低所得者に再分配することで、貧富の格差を緩和したりする。富を高所得者低所得者にどういう比率で分配するかということは常に話題に挙がる問題だ。

 

 もし高所得者に対する課税額と低所得者に対する課税額が大して変わらないとすると、貧富の格差が解消しないどころか、ますます格差が広がってゆくだろう。より生活に困っているものに対して、優先的に経済的な配分がなされることは必要なことだ。

 

 逆に、高所得者に対して過剰に課税してしまうのは不公平感がある。高い所得に対して多くの課税がされてしまうと、多くの所得を稼いでも税が多く取られてしまうため所得を多く得ようという意欲が生まれにくくなってしまう。本来、所得が高いことは本人にとっても社会にとっても望ましいことのはずだ。高所得に過剰に課税するのは、その望ましい状態をある意味社会が推奨していないことにもなる。

 

 

 富をどう再分配するかというのに確定的な結論は出ていない。それと同じように、心のケアの分配をどうするかというのも答えるのが難しい。ただ、精神的に弱い人の心のケアをするのと同時に、精神的に強いことがその心の強さ自体から得られる利益以上の利益になるようにならなければならないだろう。

 

 

 ちなみに、このような話は他にもある。例えば、風邪をひいたら仕事や学校を休むことになる。風邪をひくのとひかないのとでは、もちろん風邪をひいたほうが大変な思いをする。ただ、風邪のしんどさを除いて考えれば、仕事や学校を休めるわけだから、その分だけ得をする。風邪をひくことで得をするのであれば、風邪をひかないように体調管理を気をつけようとする気持ちが起こりにくくなってしまう。風邪をひかないことはだれにとっても望ましいことだ。風邪をひかないように常に体調に気を使っている人は、休む人を見て少し不公平感を覚えるかもしれない。

 

 もちろん、だからと言って風邪をひいたら治るまで休まなければならないし、多くの風邪は防ごうと思ってもなかなか防ぐことができるものではない。ただ、風邪をひかないというすべての個人にとって望ましいことを推奨するのとは逆方向の働きがあるということは指摘できる。 

 

 

 

幸せや苦しみを金額に換算して政策を考え直す

 政治の世界では経済的な損得は重視するが、人が幸せになれるか、大きな苦しみを避けることができるかということについては軽視される傾向があるように思える。GDPが上がったか下がったか、財政が赤字か黒字かなどは、よく話題になる。そういった経済や財政に関することは、数値として表されていて分かりやすい。一方で、国民が幸せかどうか、苦しんでないかどうかということは、あいまいで直接目に見えるものではない。そのため、どうすれば経済が活性化するかということはよく考えられているが、どうすれば人が幸せになれるか、どうすれば苦しまなくなるか、という根本的なことは意外と話題になる機会が少ない。

 

 そこで、人の幸せや苦しみを金額に直すことで、その幸せや苦しみを可視化してみることにする。金額に換算する基準は、一定量の幸福(苦しみ)があるとして、個人がその幸福を得られるならばいくら払うか、苦しみを避けることができるならばいくら払うか、というものだ。

 

 ある政策によって国民が幸せになれる、または苦しみを避けることができるとして、国民の幸福や苦しみが換算された金額の合計が、その政策を実行するのにかかるコストを大きく上回るならば、その政策は実行すべきということになる。

 

 この考え方を採ると、実行されるべき政策が実行されていなかったり、逆に大して必要もないような政策が実行されていたり、ということに気づきやすくなる。

 

 

 例として、メンタルヘルスについて考えてみる。現代には精神的な苦しみを抱えている人が多くいる。個人個人からしてみると、経済が活性化するかどうかよりも、そういう悩みや苦しみを避けることの方によっぽど関心がある。深く悩み苦しんでいる人の中には、もし苦しみから逃れることができるならば、数百万、数千万円のお金なら借金してでも出していいという人も多いはずだ。例えば重度のうつ病の人などは、私たちが想像している以上に苦しんでいて、数千万円もの大金を払う人がいてもおかしくない。

 

 ある人が苦しみから逃れるために1000万円払うとするならば、その苦しみはその人にとって1000万円分の苦しみであると見なすことができる。一人当たり100万円の経済的損失を数万、数十万人単位で受けるような出来事が仮にあったとすると、それは大ニュースだが、1000万円分の精神的苦しみを数百万人が受けていたとしても誰もそれを取り上げようとはしない。

 

 ただ国が国民の精神的な苦しみを減らす、ということはそう簡単なことではないかもしれない。それでも、あまり議論がされていない分、考えるうちに新たな政策が出てくるはずだ。

 

 

 例えば、学校教育にメンタルヘルスの授業を取り入れることができるのではないか。現在でも、保健体育の授業で扱っているかもしれないが、回数はかなり限られているだろう。保健体育の授業の中でメンタルヘルスの割合を大幅に増やすか、あるいは独立した科目として月に1回くらい「メンタルヘルス」の授業があってもいいように思う。中学、高校というのは多感な時期で、精神的につらい思いをしている人も多い。だから意外と興味を持って真面目に授業を受けるかもしれない。専門的な見地から、生活習慣、心の持ち方、つらい出来事への対処法、メンタルを鍛える方法など、授業で扱うことのできる内容は意外と多い。

 

 個人的に私は少し前から、メンタルヘルスに関することを簡単に学んで、メンタルを強くするように意識してきた。実際これによってかなり精神的に安定するようになった。メンタルヘルスに関する知識は、これまで学んできた他のどんなことよりも役に立っている。ほんの少しでもメンタルが鍛えられるなら十分に価値がある。

 

 「メンタルヘルス」の授業によって一人当たり年間で平均1万円分の苦しみを回避することができるとする(年間1万円というのはこの記事を読んでいる人に納得してもらえるような額であって、個人的にはもっと効果があると思っている。私がこれまで得たメンタルヘルスの知識は私にとっては年間10万円払うくらいの価値がある)。この授業が導入されてしばらく経ち、1000万人が授業を受けたとすると、年間で1000億円分の精神的損失を回避することができる。月1回の授業でこれだけの効果が得られるならば、やらない方がおかしい。

 

 

 今回は、メンタルヘルスを例に出して考えてみたが、幸せや苦しみを金額に換算するという方法で、他にも考え直すべき政策が見つかるはずだ。いろいろ考えてもいいかもしれない。

 

 

 

過去の苦しみに対する過小評価

 私たちは過去に感じた苦しみを過小評価しがちだ。そのときは非常に苦しくても、時間が経てば忘れて、その苦しみも大したものではないとみなしてしまう。楽しいときは平然としているが、似たような苦しみに襲われれば、これほど苦しかったのか、とまた思い出す。

 

 このことについて、マラソンを例に出して考えてみる。軽いジョギング程度ならまだしも、競技としてのマラソンはかなりしんどい。本気で走ればマラソン中はかなり苦しく、走り終えれば達成感や健康が手に入る。全体で見れば喜びよりも苦しさの方が大きい場合も多いだろう。ほとんどしんどいことばかりだが、それでも多くの人がマラソンを走っている。その理由はさまざまあるはずだが、1つはマラソン中に感じる苦しみを忘れてしまうことがあるのではないか。走っている最中は本当に苦しいが、走り終わればその苦しさは忘れてしまう。一方で、健康や鍛えられた体力、マラソンを走りきったという事実はそのまま現存する。そのため、苦しみを過小評価し、またしんどいマラソンを走ろうと思うようになるのではないか。(マラソンを否定する意図はない。私も走るのは好きだ。)

 

 

 これと同じことは、日常にも多くある。すごく苦労して大したものしか得られなかった場合でも、その苦しみを忘れ、得ることができたほんの些細なことばかりに気を取られてしまう。

 

 例えば、仕事などで苦労を多くしても、その苦労によって成長できたとする考え方がある。ただ普通は、成長出来たことによる喜びや利益よりも、苦労の方がよほど大きいはずだ。それでも、困難が去ったあとはその苦しみを忘れて、得ることのできた成長にしか注目しなくなる。これは良い意味でも悪い意味でもポジティブだといえる。

 

 その困難が自分ではどうしようもないものであれば、成長できると考えることによって精神的に楽になることができる。その困難なことにも意味ができるので、それは本当に良いことだろう。

 

 一方で、苦しみを適切に認識できずに、過去に味わったような困難を自ら再び選択してしまったり、人にその困難を与えてしまったりするならば大きな問題だろう。

 

 困難さを正しく認識した上で選択するならば全く問題はない。しかし実際は、苦しさを甘く見て自ら困難な道に進む場合が多いような気がする。

 

 また、「若い頃は自分も苦労した。その苦労によって成長できた。」などといって、困難を他人に課す人もいる。厄介なことに、本人は本当に相手のことを想って言っている場合もある。本人はその若い頃の苦しみを忘れているだけで、今自分が同じように味わったら、その困難を否定するようになるかもしれない。困難によって得られる成長は、その苦しみと比べたらほんの小さなことだろう。

 

 

 

統計学的にブラック企業を認定する

 今の世の中では、ブラックだと噂されるような企業が数多く存在する。ただ、それはあくまで噂による推測である。また、表立っているブラック企業はごく一部であり、実際にはさらに多くのブラック企業があるはずだ。

  仮に、すべての企業を調べ上げ、数学的に明確な基準によって、ブラック企業を認定することができれば、その劣悪な労働環境は大きく改善していくだろう。明確な基準によってブラック企業が認定され、さらにそれが世間に公表されれば、その企業イメージは急落することで、売り上げが減り、新たに人を雇い入れることがほとんどできなくなる。そのイメージを回復するために、企業側は労働環境を改善せざるを得なくなるだろう。あいまいな基準によるブラック企業認定よりもはるかに効果は大きいはずだ。

 

 統計学の手法を用いれば、ブラック企業を客観的に認定することができるのではないかと考えられる。(私自身は統計学に詳しくないので、細かなことについては言及できない。)

 その具体的な調査方法は、

「日本の全労働者に対する、一定期間内における日本の労働者の死亡者数」―① 

と、

「ある企業の全労働者数に対する、一定期間内におけるその企業の労働者の死亡者数」―② 

を比較するというものである。

 

 ①は「日本の企業に勤めた場合の労働者の死亡率」を表している。①の死亡者数と②の死亡者数に統計学的に有為な差があると示されれば、②の企業はブラック企業だということになる。

 ブラック企業でなくても、労働することでどうしても少しは死亡する確率は上がってしまう。①の死亡者は、そうした平均的な企業の業務や、加齢などによる自然に起こりえる病気など、が要因となったものであると考えることができる。②の死亡率がそれよりも有意に大きいとすれば、そうしたこと以外の要因、すなわち、その企業の過重な業務や、その職場内の過度なストレスが要因となって死亡者数が増えている、ということだ。また、工場や工事現場など、身体的に危険な労働環境が要因となって死亡者数が上がる場合もある。

 

 年齢が高くなるほど死亡率が上がるので、日本全体の労働者の世代割合と、その企業の世代割合にズレがある場合は、正確な結果が出ない。その場合は、企業の世代割合を日本の労働者の世代割合に合わせるなど、複雑な計算が必要になるだろう。

 

 ここで指摘しておきたいのは、①や②における「死亡者」の中には、過労死や過労自殺だけでなく、労働からは全く起因しないようなあらゆる死因が含まれている、ということだ。明らかに労働が要因となったものや、労働とは全く関係のない要因によるもの、労働が要因になったかどうか微妙なもの、すべてが含まれている。病気、自殺、事故などである。

 本来なら、死亡者は過労死や過労自殺に限定するべきだが、過労死や過労自殺の正確な数を把握するのは難しい。

 万が一働きすぎによって労働者が過労死した場合は、労災などが認めら、遺族に対する補償が認められる場合がある。ただ過労死の中には、それが労働によるものだと完全に認められることが難しいような微妙なケースもある。また、遺族が労災の申請をしないことで、過労死が表に出ないということもあるはずだ。そのため、過労死や過労自殺の数は、労災として認定された数より実際には多くなるはずだ。

 ここで挙げている調査では、そうした正確な数を把握しづらい過労死や過労自殺という分類を使っていない。それによって、個々の亡くなられた方々が過労死によるものであったかどうかを調べることはできないが、企業ごとに労働者を死なせるような労働環境があるかどうかを調べることができる。

 

 ただこの調査には不十分な点もある。それは、病気になりやすい傾向の人を多く採用していたり、メンタルが元々弱い人が多いような企業は、ブラック企業でなかったとしても、②の死亡率が上がってしまう、ということだ。

 心身共に健康な人を採用したがる企業は多く存在するが、そこが仮に劣悪な労働環境だったとしても、ブラック企業だと認定されなくなってしまう可能性もある。

 

 このような点を克服できれば、ここで挙げた方法によって、客観的な基準によってブラック企業を認定することができるはずだ。

 

 

 

動物の感じる苦しみ

 人間には、快や幸福などのプラスの感覚もあれば、苦しみといったマイナスの感覚もあります。快や苦は、人間が行動する上での根本的な動機になります。進化の過程で、行動原理として快や苦を身に着けてきました。

 

 生存や繁殖に望ましいような行動には基本的に快が伴います。例えばエネルギーになる脂肪や糖質が入った食べ物はおいしく感じます。私たちはいつでも快や喜びを求めるので、おおよそのところ生存や繁殖に有利になるように行動していることになります。

 

 また、生存が脅かされるようなことには、苦しみや恐怖などを感じるようになっています。捕食者に追われれば恐怖を感じ、しばらく食事をしないと空腹に苦しみます。こうした感情によって、飢餓などの望ましくない状態を回避するようになります。

 

 

 ただもしかすると人間には快と苦の両方ではなくて、快などのプラスの感覚だけ、あるいは苦などのマイナスの感覚だけしか存在しなかったかもしれない、と考えられるような気がします。

 

 例えば、苦の感覚がなく快だけしかないという場合を想定してみます。このとき、普段から常にそこそこの快や幸福感を感じているとします。そして、飢餓や病気など、本来であれば苦しみを感じるときに、快や幸福感が普段より小さくなるとすると、苦しみが存在する場合と同じような機能が働き、その行動を回避するようになるはずです。快の減り方が大きければ、すぐにでも快が元に戻るように行動するでしょう。快や幸福感が減少することが、苦しみの代わりの役割をするということです。また、食事など本来であれば快を感じるときには、普段よりも大きな快を感じる、ということになります。

 

 逆に、快がなく苦しみだけがある場合も考えることができます。この場合、常に一定の苦しみを感じており、苦しみが減ることで本来の快の役割を、苦しみがより大きくなることで本来の苦しみの役割を果たすことになります。

 

 苦がなく快だけしかない場合を考えると、人間もそうだったらいいのに、と思えます。一方、苦だけしかない場合を考えると、人間には快があるだけよかった、とも思えます。

 

 

 

 人間には快と苦の両方がありますが、動物も人間と同じような仕組みになっているのでしょうか。生物学などの専門知識を基にするわけではなく、あくまで推測でしかありませんが、他の動物の中には、人間とは快苦の仕組みが大きく違っているものもいるように思えます。

 

 もしかすると苦がなく快などのプラスの感覚のみを感じている動物がいるかもしれません。もしそうだとしても何も問題はないでしょう。ただ、逆に快がなく苦だけを感じている動物がいるかもしれないとも考えられます。

 

 この例は少し極端かもしれません。ただ、人間と同じように快や苦があっても、その快や苦の大きさが人間とは大きく違うということは、十分にあり得ることです。多くの人間が感じている快や苦の大きさは、それほど必然的に定まったものではないかもしれません。ある種類の動物は人間が感じるよりも大きな苦しみを感じているはずです。

 

 もし、苦しみが大きくなればなるほど、よりその状況を避けるようになるとするならば、単純に考えると、苦しみが大きければ大きいほど生存に有利に有利に働くことになります。人間の場合は、単純に苦しみが大きいほど生存に有利というわけではないのかもしれませんが、無数に存在する動物の中には、そのようなことでとてつもなく大きな苦しみを感じているものがいるかもしれません。