思考志向

『「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」』という記事を読んでみてください。

若者と高齢者の構造的な利益の不均衡

 人間は現在の利益を最優先する傾向があります。また現在の利益よりは優先度は低いですが、将来もいずれ来る未来なので、当然将来の利益も考慮に入れることになります。将来の利益を得るために努力するよりも、今の利益を得るためにより努力します。そして、未来が遠ければ遠いほど優先度は低くなります。

 

 若者にとって、若い時期は今まさに過ごしている時期なので、他の時期よりも今の若い時期の利益を最も重視するでしょう。また中年あたりのころの利益もある程度は重視し、老後の利益も多少は考えるでしょう。中年の人たちも当然今の利益を最優先します。そして今現在の利益ほどではないが、老後の利益もある程度重視します。また、高齢者も今の利益を最優先します。

 

 ただ、当然のことですが、人間は将来の利益を考慮することはあっても、過去の利益を追求することはありません。中年の人たちは過去の若いころの利益を、高齢者は若いときや中年のころの利益を考えようとはしないのです。

 

 このことから、人生のより後の時期ほど多くの人に利益が追求される、ということが言えます。単純に、人間は合理的に自己の一生の利益を求める、という性向のみを考慮すると、誰もが今の利益だけでなく老後の利益も求めます。一方で、高齢者は今の老後の利益のみを求めます。人間全体ではそれぞれの時期の利益がどれだけ求められているかを考えると、単純に世代ごとの人口がおおよそ同じだとすれば、若い時期の利益より中年ごろの利益、中年ごろの利益より老後の利益がより考慮されることになります。

 
 
 このことは、特に政治などにおいて、世代ごとの利益の不均衡につながるかもしれません。政治においては例えば、若い時期には雇用や子育て、老後には年金や医療政策などが利益につながるでしょう。若者は雇用や子育てだけでなく、年金や医療政策からもいずれ恩恵を受けることなので、こうした制度もある程度重視します。一方高齢者は、基本的に雇用や子育てに関する政策によって自己の利益を得ることはないので、自然とそのような政策を軽視するようになるでしょう。
 
 ここで、ある一人の人間に一定の財源が渡されて、人生の時期ごとにその財源を、人生全体で満足できるように適正に振り分けていくということを考えてみます。その人には特定の年齢があるわけではなく、それぞれの時期を客観的に公平に判断できるとします。そうすると例えば、若いときは子育てが大変だからそこに多く財源を割いたり、中年の時期は安定しているから少なくしたりなどとなります。ここでは、世代ごとの利益の分配が適正になされています。大まかには、ここでなされた配分と実際の政治での配分は同じような傾向になければならないように思います。
 
 しかし、後の時期の利益がより考慮されるという性質によって、そのような世代ごとの適切な配分がなされないかもしれません。国民全体の個々の要望を足し合わせたものをそのまま政治に反映させ、要望が強い事柄ほど多くの財源を割くということをしたとしても、この性質によって構造的に世代ごとの利益に不均衡が生じてしまうのです。それぞれの時期が適正に比較されなければならないはずが、老後のような後の時期ほどより考慮に入れられ、公平に判断されないということです。
 
 ただ、実際の政治において若い世代ほど利益が得られていない、ということを主張しているわけではありません。ここで述べたことは、人間は自己の利益のみを追求するという要素のみを考慮して理想化して導き出された結果です。この自己の利益のみを追求する性質が働いてもなお、他の複雑な要素が原因となって、現実にはむしろ高齢者の世代の方が若者より利益を得られていないということがあるかもしれません。
 
 いずれにしても、政治においてはこうした性質も考慮に入れたうえで、国民の求めることを政策に反映させなければならないように思えます。
 
 

  

今の自分が過去の自分より正しいとは限らない

 基本的に今の自分と過去の自分は連続性を持っていて、それぞれ同一人物です。これまで生まれてから今まで、自分は一人の人間として成長してきたました。今の自分と10秒後の自分は同じ一人の人間のはずです。名前が「けんた」なら、いつ何時でも自分は「けんた」であって、ある一時だけ「たかし」であった、ということはないでしょう。これはごく自然な考え方です。

 

 ただ一方で、そうではない別の考え方をすることもできます。例えば、「昔の私は私じゃない。」といった表現があります。これは、今の自分と昔の自分は、性格や考え方があまりにも違いすぎるので、別人だと言っています。今の自分と昔の自分は、同じ存在だと言えば同じ存在ですが、見方によっては別人だと見なせられます。

 

 今の自分と過去の自分がそれぞれ異なった存在だという見方を、より突き詰めることもできます。今の自分と1秒前の自分は、完全に同じというわけではありません。体の位置は少しだけ移動しているし、体の内部も血液などが常に動いています。そもそも、同じ時間には存在していません。

 

 このように、現在の自分と過去の自分はそれぞれ別の人間だと見なすことができます。そして、この見方をとることによって、生まれてから今までの自分は連続性を持っているという考え方では見えなかったことが見えてくるようになります。その見えてくることの一つを書いてみようと思います。

 

 

 私たちは過去の自分を蔑むことがよくあります。「昔の俺は馬鹿だったな」というように。これは(過去の)自分を卑下していて、なんとなく謙遜したような表現に聞こえます。

 

 ただ、今の自分と過去の自分が別の存在だとする見方に立てば、少し傲慢にも聞こえます。この場合、今の自分からしてみれば、過去の自分は生き方や考え方が(今の)自分とは少しだけ違う他人です。その他人を馬鹿にしているわけです。謙遜しているような形をとりながら、今の自分の生き方や考え方が正しいということを前提としているのです。

 

 そもそも、「昔の俺は馬鹿だったな」と発言しているのは現在の自分です。現在の自分が、今の価値観やものの見方をもとに、現在と過去の自分を比べて、過去の自分は馬鹿だとしているのです。これは偏った判断でしょう。過去の自分が現在の自分を見ると、過去の自分の方がマシだと思うかもしれません。

 

 過去の自分を他人のようなものとみなすと、「昔の俺は馬鹿だったな」というのは、「あの人は馬鹿だな」という発言と似たようなものと考えることもできます。私たちは自分の考えは他の人より優れていると考えがちですが、それと同じように、今の自分は過去の自分より優れていると考えているということです。

 

 人は時が経つごとに少しずつ賢くなるという常識がありますが、これは(今の)自分は優れているとするちょっとした傲慢さが作り上げた常識ではないでしょうか。必ずしも、今の自分が過去の自分より正しいとは限らないように思えます。

 

 

人は幸福を強く望んでいるようでそこまで望んでいないように思える

 一般には、幸福というのは人間の究極の目的だと考えられています。どのような行為の目的も、さかのぼれば根本には幸福になりたいという欲求があるとされます。例えば、なぜ働くのかと言えば、お金を稼ぐためであり、なぜお金を稼ぐのかと言えば、生活に必要なものを買うためであり、なぜ生活に必要なものを買うのかというと、幸せになるため(不幸にならないため)である、といった具合です。

 

 お金持ちだが不幸なのと、貧乏だが幸福なのではどちらがいいかと言われると、明らかに後者の方がいいでしょう。(前者の方がいいと考える人もいるかもしれませんが、前者の苦しみ、あるいは後者の幸福感を実際にありありと感じたならば、後者の方がいいと思うようになるはずです。)このことから、お金より幸福の方が、人生にとってより優位な段階にあると考えることができます。また、このお金という部分に他の様々なことを当てはめることができます。(自尊心は満たされるが不幸、家庭はあるが不幸、健康だが不幸、など。)基本的にどのようなことを当てはめても、後者を望むようになるはずです。それだけ人間にとって幸福はどんなことよりも重要なことだと言えるのではないでしょうか。

  

 だれもが幸せになりたいと考えているのは確かなことでしょう。当然私も苦しみはできるだけ味わいたくはないし、幸せになりたいと思っています。ほとんどの人は、自分の幸福を最も重要なことだと考えているはずです。

 

 

 しかし、幸福が人間の究極の目的であるにしては、幸福について日ごろから考えている人は少ないように思います。日常的に触れる出来事に関することはよく考えますが、幸福については普段あまり気にしていません。誰かと会話するときに、日常的な些細なことについてはよく話題に上がるけれども、最も重要なことであるはずの幸福については、めったに話しません。

 

 私たちの普段の態度からは、幸福になりたいという思いを、強くは感じることができません。それに対して、仕事や家事など日常的にしなければならないことには真面目に取り組みます。また、欲求やあることをしたいという思いは、普段から強く感じられます。欲と幸福は大きく関係しているでしょう。欲が満たされなければ苦痛を感じ、幸福を得られないからです。しかし、当然のことながら、欲が満たされることと幸福であることはそれぞれ異なる事柄です。幸福については特段考えず、自分の欲求やしたいことを求めたり、自分の立てた目標を達成しようとする人生と、幸福を目指して生きる人生が、完全に一致するわけではないでしょう。

 

 「幸せになりたいか?」と聞かれると、誰もが「幸せになりたい」と答えます。私たちは頭の中では、「幸せになりたい」、「幸せは人生の究極的な目的だ」といったように考えているということです。しかし一方で、多くの人は日常生活では幸福についてはあまり意識せずに過ごしています。

 

 それは、頭の中では、幸せになりたいと思っているのに、実際の生活では、その幸せになりたいという思いがほとんど反映されていない、と言えるのではないでしょうか。また、自分の人生の究極的な目的は幸福である、と論理的には認めていたとしても、実生活では意識的にその究極的な目的を達成しようとしていない、とも言えるでしょう。さらに言い換えると、幸福という究極の理想を持っているけれども、幸福になるための工夫などはあまり考えようとはしていません。個人的な経験からも、この人は本当に幸せになりたいのだろうか、と疑問を抱くような人に出会うこともあります。でも、その人も当然幸福になりたいはずです。

 

 なぜこのようになるのかについては、以下のように考えられるのではないでしょうか。人間を生物としてみると、その場その場での快を求めたり、苦しみを回避したり、欲や自分が直観的に望むことをそのまま求めたりすることは、生きる上で必要なことだったかもしれません。しかし一方で、幸福というものの性質を分析し理解して、人生全体の幸福の総量を増やそうとする必要はなかったでしょう。

 

 

 頭では、幸福になりたいとうことを認めているのだから、もっとそうなるための方法を考えたり、工夫したりするべきです。何も考えずに生きるよりは、幸福になるにはどうしたらいいのか考え、実践して生きた方が幸せな人生を送れるはずです。

 

 ここで言っている、幸福になるための方法や工夫というのは、いい大学に入学するとか、まじめに働いて出世する、いい恋人を探して結婚する、といった具体的な目標を実現しようとすることを指しているわけではありません。幸福という観点から見たら、こうした目標を実現しても、かえって不幸を呼ぶこともあります。いい大学に入って不幸(いい大学に入ることによって得られる自尊心なども含めて不幸ということです。)なのと、いい大学に入れなくて幸せなのとでは、ほとんどの人は後者の方がいいと思うはずです。自分の憧れやしたいと思ったことなどをそのまま求めるのではなく、幸福そのものに焦点を絞って、もっと意識的に幸福を得るように行動した方がいいように思います。

 

 

 今ここで言っているのは、例を挙げると、幸福というものがどのような性質を持つのか理解したり、幸福になるための心の持ち方や、幸福に関する医学的知識(例えば、セロトニンと言われる神経伝達物質は幸せホルモンと言われています。)を身に着けたりする、といったことなどです。そして、そうした知識を生かしながら、自分の人生の幸福の総量を最大化するように意識して行動する、ということです。

 

 不幸な人生より、幸福な人生の方がいいに決まっています。もし、幸福というものを意識して行動することによって、幸福の総量を増やすことができるならば、当然そうした方がいいはずです。

 

 そうなると、実際にそうすることによって幸福になれるかどうかが重要な問題になります。私の個人的な経験では、意識して幸福を増やし苦しみを減らそうと行動することで、今のところは実際により幸福になれていると思います。その具体的な方法や工夫はここでは触れないことにします。いつか扱うと思います。ただ、人それぞれ性格や環境に違いがあると思うので、自分に合った工夫や方法があるでしょう。自分でどうすれば幸せになれるのかを考えるのが重要だと思います。

 

 

 

外国人を受け入れることによる戦争抑止力

 他国からの武力攻撃を未然に防ぐためには、さまざまな方法があります。その中で最もよく知られている方法は、軍事力によって抑止するということでしょう。ある国が強力な軍事力を持っていると、他国がその国を攻撃すると報復として反撃されるから、攻撃できなくなるというものです。ただ、別の平和的な手段を用いることで、必要な軍事力が少しでも減らせるならば、当然その方がよいでしょう。


 そこで、他国からの攻撃を、少しでも減らせるかもしれない、という方法を考えつきました。



 その方法は、移民や観光といった形で他の国や民族の人々が入国してくるのをある程度受け入れるようにする、というものです。通常であれば外国人を入国させるのには一定程度制限をかけますが、その制限を緩めることである程度外国人を受け入れます。さまざまな国や民族の人々がいた方が、他国から攻撃されにくくなるというものです。

 

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 A国とB国というお互いに関係が非常に悪く、両国の間で今にも戦争が始まってしまうかもしれない、という国があるとします。B国はある理由で、A国を攻撃しようとしています。このとき、A国の中に、B国の国民がいるという場合を考えてみます。この場合では、A国内にB国民がいないときと比べると、B国はA国を攻撃しにくくなるのです。A国を攻撃すると、B国民までもが被害を受けてしまうかもしれないからです。特に空爆やミサイルのような遠距離の攻撃であれば、B国民がA国内のどこにいるのか確認できないので、A国民だけでなく、B国民にも、意図せずに攻撃を加えてしまう場合があります。B国としては、同じ国の人間を、自分たちが攻撃してしまうというのは、通常の民主主義国家ならば容認できることではありません。B国内でも、自国の攻撃に対する批判が湧いてくるでしょう。

 どの国も、元々関係の悪い国の人々を、あまり受け入れないようにする、という傾向があるかもしれませんが、むしろ関係の悪い国の人ほど積極的に受け入れた方が、少しでも攻撃を抑止することができるかもしれません。
 

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 また、A国内に、A国やB国とは別のC国、D国、E国・・・という第三国の人々がいる場合も、A国はB国からの攻撃を受けにくくなると考えられます。

 仮にB国がA国を攻撃したとします。A国内にC国民やD国民などの第三国の人々がいない場合であっても、多くの第三国の国々は、B国がA国を攻撃した理由などによって大きく変わりますが、B国に対してある程度の非難を浴びせるようになるでしょう。

 A国内に第三国の人々がいる場合を考えると、B国の攻撃によってA国内のC国民が犠牲になる可能性が出てきます。仮に、C国民が犠牲になった場合、C国民がA国にいない場合と比べて、激しくB国を非難するはずです。本来であればB国の攻撃を支持するところが、自国民が犠牲になったことで、B国の攻撃を非難するようになるかもしれません。そうなると、B国の国際的な立場はさらに弱くなってしまいます。 特に、B国がC国と深い関係を持っている場合には、その関係が悪化することで、B国は損害を受けるかもしれません。

 日本のメディアでは、海外で災害や大規模な事故が起こった場合、日本人の安否が報道されます。そして、日本人が被害に遭ったか遭わないかによって、その出来事の取り上げられ方が大きく変わってきます。日本人に被害がなければほとんど扱われないようなことでも、日本人に被害があれば大々的に報道されます。それは、海外での戦争も同じようにあてはまるでしょう。もし日本人が被害に遭えば、多くの日本人が関心を持つようになり、非難の声が大きくなるはずです。

 

 実際の歴史上では、第三国の国民が被害を受けたことによって、攻撃した国が不利な状況に追い込まれるということがありました。それは第一次大戦中のイギリス、ドイツ、アメリカの間で起こった出来事です。(ここでは、A国=イギリス、B国=ドイツ、C国=アメリカ、となります。)第一次大戦中、ドイツはイギリスに対抗するため、無制限潜水艦作戦を実施しました。これは、連合国へ向かう船舶を、中立国の船舶も含めて、ドイツの潜水艦が無警告で攻撃するというものです。この作戦の際に、あるイギリス客船が撃沈され、その客船に乗っていたアメリカ人128人が犠牲になる、という事件が起こりました。この事件によって、アメリカ国民の反ドイツ感情が急速に高まっていきました。当時アメリカは中立国でしたが、これをきっかけとして連合国側に加わり、結果としてドイツは敗戦することになります。この事件ではドイツに抑止力は働いていませんが、第三国のアメリカ人に被害を与えてしまうことによって、ドイツは不利な状況に追い込まれていったということがよく分かります。

 
 このように、第三国の人々にも被害を与えてしまった場合、国際世論の反発がさらに大きくなるため、攻撃することがより難しくなるでしょう。

 

 

 もし仮に、ここまで述べてきたような抑止力がある程度の影響力を持って存在するのだとしても、このような抑止力は表立っては見えてこないでしょう。これまで歴史上で、本来なら攻撃するはずだったが、この抑止力が働いたことによって攻撃しなくなった、ということがあったとしても、そのことが世間に知れることはあまり考えられません。そのため、この抑止力は表には出ないものですが、実は大きな力を持っているかもしれません。

 

 上で挙げた第一次大戦中のドイツの場合、結果として抑止力は働きませんでしたが、当時のドイツ政府内では皇帝ヴィルヘルム2世をはじめとして、国際世論を懸念して無制限潜水艦作戦に慎重な声もありました。したがって、このとき抑止力が働いた場合も考えられなくはないのです。この場合はたまたま抑止力が働かなかったため、アメリカ人が犠牲になりアメリカが参戦するようになる、ということが目に見えた形で分かります。一方で抑止力が働いたとすると、そのことは表立っては来ません。そのため、これまでの歴史上こうした抑止力が働いた場面が何度もあったかもしれません。

 


 ここでは国民という単位で考えましたが、それを民族や宗教、文化、人種などに置き換えることもできます。同じ民族や宗教の人々はより同族意識が強いので、その同じ民族や宗教の人々がいる地域には攻撃を加えにくくなります。また、もし同胞が攻撃による被害を受けたならば、その攻撃を非難するようになり、その地域は攻撃されにくくなるでしょう。

 

 

 このように、さまざまな国から多種多様な人々を自国に受け入れるようにすれば、他国からの攻撃に対する抑止力を働かせることができるでしょう。

 


 多くの国がこうした抑止力を用いることで、少しでも軍事を縮小することができるならば大きな利益になるでしょう。しかし、一部の国が、他国に対して明らかに非合理な攻撃をすることがあります。そういった国に対して、やむを得ず攻撃しなければならないことがあるでしょう。その国が、ここで挙げたような抑止力を用いることで、攻撃が加えられづらくなるならば問題です。

 しかし、他国に対して非合理な攻撃を加えるような政治的に未成熟な国は、この抑止力をほとんど用いることができないでしょう。なぜなら、そのような国は、政治の不安定さから、ほとんど外国人が来ないからです。多くの人は政治的に安定した信頼できる国に行くはずです。また、おおまかな傾向として、政治がある程度成熟している国は、経済水準も高い傾向にあり、多くの外国人がやってきます。そのため、民主主義が行き届いていないような未成熟な国ほど、その抑止力の恩恵を受けることができません。そういった点からも、この抑止力は理にかなっていると言えるのではないでしょうか。

 

 

 移民政策に賛成するにしても、反対するにしても、ここで述べてきたことは、そう言った問題について考える上での一つの要素になるでしょう。

 

 

 

aoja.hatenablog.com

 

 

自分とは比べ物にならないくらいはるかに賢い人がいるかもしれない

 人と話したり、本やネットの記事を読んでいると、たまに「この人頭いいな」と思うことがあります。その人は、自分が思いつきもしなかったような奇抜な考えや、豊富な知識や経験に裏打ちされたような主張を持っています。私はそういう人をみると、世の中にはこんな賢い人がいるのか、と感心します。

 

 しかし、その人たちは、客観的な事実として頭がいいとされているわけではありません。ただ、私が頭がいいと見なしているだけです。もし、その人を賢いと判断している私自身の頭が悪ければ、その判断はあまり信用できるものではないでしょう。

 

 そうすると、自分には認識できないような、とてつもなく賢い人がいるかもしれない、と考えられるはずです。私の頭のレベルが大したことないから、私より少し頭のいい人しか認識できず、とてつもなく賢い人に気づくことができないのかもしれないのです。ただ、その自分とは比べ物にならないくらい賢い人には気づくことができないので、その実感は湧きにくいでしょう。そのため、普段はなかなかそのようなとても頭のいい人を想定することはできません。

 

 成長していくにつれ、これまでは気にも留めなかったような人の賢さに気づく、ということがたまにあります。昔は、「何かよくわからないようなことを言っているな」と思っていただけなのが、自分がそこそこ賢くなると、初めてその人の頭の良さに気付きます。

 

 このような経験は、かつて経験したことがあるというだけのことではなく、原理的にはこれから先もいくらでも起こり得ることです。いくら自分が賢くなっても、自分には気づけないような非常に頭がいい人がいるかもしれません。極端なことを言えば、仮に地球上で最も賢い人間になったとしても、とてつもなく頭がいいような宇宙人を想定することができます。

 

 

 世間一般で頭がいいと言われている人がいますが、そうした人にも、本当に賢いかどうか一度疑いの目を向けてみてもいいかもしれません。その人たちも、頭が特別いいわけでも悪いわけでもないごく普通の人たちに評価されているだけなのです。もっと頭のいい人たちが幾らでもいるにもかかわらず、世間一般の人たちは、その存在に気づいていないのかもしれません。だから、世間で頭がいいと言われている人たちが本当の意味で賢いかどうかは分かりません。そのため、一般には賢いとされている人の言っていることも正しいとは限らないのです。言っていることが正しいかどうかは、そのまま受け入れるのではなく、各個人が判断することでしょう。

 

 

今考え事をしている自分とは別の意識や感覚が、同じ身体に独立して存在しているかもしれない

 これから言うことは、あくまで可能性として想定できるという話であって、現実にはあまり考えにくいことです。その大まかな結論は、タイトルの通りです。


 人間の心の中に表れる感覚、意識などにはさまざまあります。例えば、「今日は傘がいるだろうか」と思考したり、ぼんやりといろんなことを思い浮かべたりする意識があります。また、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚といった五感や、痛い、気持ちいいなどの感覚、楽しい、悲しい、腹が立つなどの感情もあります。(ここで言っている意識や感覚というのは、哲学の用語で言えばおそらく感覚与件とか現象といった言葉で表現できると思います。)

 ここで挙げた意識や感覚というのは、どれも実際に心に浮かぶ、ということで共通しています。例えば、カメラを持った移動できるロボットがあるとします。カメラを通して障害物の位置を把握して動くことができます。しかし、そのロボットに視覚があるわけではなく、ここで言っている意識や感覚にはあてはまりません。周りの光景がイメージとしてロボット自身に思い浮かんでいるわけではないからです。

 また、無意識は、広い意味で心の一部ですが、実際の意識として心に浮かぶものではないので、ここで言っている意識や感覚には含めません。


 こういった意識や感覚は、すべて一つにまとまっており、それがその人の心、あるいは精神を構成している、と考えることができます。どういうことかというと言うと、意識や感覚がそれぞれバラバラに存在しているわけではないということです。今考え事をしている私には同時に触覚もあります。触覚だけが独自に存在していて、考え事をしている私には触覚を感じることができない訳ではありません。思考や聴覚、視覚、感情などさまざまな構成要素が合わさって一人の人間の心を成り立たせているのです。


 このような考え方をすると、次のように言えるかもしれません。それは、その構成要素のまとまり、言い換えるとその人の心、の中には含まれていない意識や感覚が同じ身体に存在するかもしれない、ということです。例えば、その構成要素が100個あるとします。しかし、100個がすべてまとまっていると考える必然性は必ずしもなく、まとまりを作っているのは99個で、残りの1つはそのまとまりの中に入っていないかもしれません。考え事をしたり、五感や感情を持っていたりする自分の心とは独立した、未知の感覚や意識があるかもしれないわけです。

 というより、同じ身体の中に別の感覚や意識が存在していないと証明するのは難しい、と言った方がいいかもしれません。仮に別の感覚や意識があったとしても、気づくことができないからです。

 極端なことを言えば、仮に石が心を持っていたとしても、なかなかそれに気づくことはできません。もちろん、実際には石が心を持つなんてことはあり得ませんが。ただ、人間の場合は、今考え事をしている自分にはない別の感覚が存在しているかもしれない、と考えることができます。

 ただし、実際にそうである可能性は低いでしょう。別の感覚が存在している可能性があるということであって、実際にそうしたものが存在するかどうかは別の話です。


 例として、次のようなものを考えます。それは、実際にいるのかどうかわかりませんが、体の一部に別の小さな生き物がくっついているような生き物です。その小さな生き物には思考などはなく、単純に一つか二つ程度の感覚しかありません。その感覚は、大きい方の生き物の身体を維持したり、行動したりするための補助になる、といった感じです。お互いの感覚は共有されておらず、それぞれ完全に独立していて、その身体の一部になっている生き物が小さいなどの理由で、大きい方の生き物がその小さな生き物がくっついていることに気づくことができないのだとします。そうなると、大きい方の生き物は、その小さな生き物の感じる感覚にも一生気づくことができません。自分の体の中には、自分が感じているもの以外には感覚は存在しないと見なすわけです。

 仮に、その小さな生き物が大きな生き物の右足のあたりに位置しているとします。歩くときに右足で地面を踏みますが、その時小さな生き物は大きな生き物よりも、よりリアルに地面の感触を感じているかもしれません。それは言い換えると、大きな生き物は自分の身体の中にある別の感覚に気づいていないということです。
 
 雰囲気としては、この大きな生き物が人間にあたります。当然、人間には別の生き物がくっついているわけではありません。ただ、この例を見れば、自分の中に別の感覚や意識があっても気づくことができないという事がどういった感じなのか、理解してもらえるかもしれません。


 もちろん、大きい生き物と小さい生き物の例とは大きく違って、人間には脳は一つしかありません。ただ、一つの脳には、ひとまとまりの一つの心があるだけで、それとは直接的には関わりを持たないような独立した意識や感覚はない、と考える必然性はありません。可能性としては(あくまで可能性ですが)、そのような独立した意識や感覚を想定することができます。少なくとも、脳の仕組みや構造などの専門的なことを考慮に入れる前の段階では、このように言えるでしょう。(専門家には否定されるかもしれません。ここでは、あくまで可能性のみを考えています。)

 

 


 今度は今考えている自分とは別の感覚や意識の想定できる具体例をいくつか考えてみたいと思います。これから書くことは、専門的な知識に基づいたものではなく、あくまで可能性として考えられるという話なので、あまり深くは考えないでください。

 まず考えられるのは、今考えている私が感じている以上に大きな感覚が別に存在している、という可能性です。これは、小さな生き物が大きな生き物の右足についているという例と似ています。人間も例えば手がもっと敏感な触覚を持っているかもしれません。


 身体の外側だけではなく、内部にも同じように考えることができます。私たちは普段内臓などの痛みや感覚はあまり味わいませんが本当はさまざまに感覚があるかもしれません。

 

 また、私たちがこれまで経験したことない感覚や意識も同じ身体の中に存在する可能性もあります。例えば、視覚や聴覚などの五感とは違った感覚がないとも言い切れません。

 

 ほとんど考えにくいことですが、自分とは別の思考する意識が、同じ脳の中に存在することも可能性としては考えられます。どちらにしてもほとんど可能性はありませんが、その中でも比較的現実味があると思ったのは、私たちが無意識と呼んでいるものが、実は私たちの通常の意識とは独立したところに、意識として存在している、という可能性です。


 ここまでは、今考えている自分の心とそれとは別の感覚や意識が完全に独立している場合を考えてきました。そういった場合だけでなく、基本的にはその二つに隔たりがあるが、部分的にお互い結びついている、という場合も想定できます。

 例えば、根拠はほとんどなく個人的な想像にすぎませんが、夢がこの例にあてはまる可能性が考えられます。夢は目が覚めた直後は少し覚えています。そして、そのイメージは目が覚めているときに目で見るよりかは鮮明さに欠けています。しかし、実際夢はもっと鮮やかで、今考えている自分には不鮮明なイメージしか受け取れないのかもしれません。自分とは別のところで夢が鮮やかなイメージとして同じ身体の中で生じており、その夢の不鮮明なイメージが目覚めている私にも感じることができる、といったことです。

 
 このように、可能性は低いですが、もし心が一つにまとまっておらず、今考えている自分とは別の意識や感覚が存在しているのだとすると、そうなるだけの理由があるかもしれません。ただ、そうだとしても、私にはその理由は思い浮かびませんが。

 

 でもそもそもなぜ、意識や感覚が存在しているのでしょうか。何か簡潔な理由はあるのでしょうか。高性能なロボットは、障害物の位置を把握してよけて移動したり、人の声を聞き取ったりします。また状況によって適切な判断を行うこともできます。そのロボットには、視覚や聴覚、思考がありませんが、それに対応する機能は持っています。人間や高等動物も同じように、意識や感覚はなく、機能だけがあってもおかしくないですが、そうならなかったのには何か理由があるのでしょうか。また、これまで考えてきたこととは反して、もし一人の人間の中にあるすべての意識や感覚がすべて一つにまとまっているのだとすると、そのようになる理由は何なのでしょうか。こうしたことが深く理解できれば、ここで述べてきたことを判断するヒントになるかもしれません。
 


 いずれにしても、自分とは別の意識や感覚が存在しているというのは、あくまで可能性として考えることができるというだけであって、実際には考えにくい話かもしれません。

 

  

「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」

 

 これから、「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」というものについて書こうと思う。これらの苦しみは、抽象的に考えられうる苦しみの最悪のパターンとして想定されるものだ。


 まず、無限の苦しみの「無限」という言葉は、比喩的にとても大きいといった意味ではなく、ここでは数学で使うような無限大、という意味だ。また、「有限の限りなく大きな苦しみ」というのは、無限ではないが、今まで人間が感じてきたどんな苦しみよりもはるかに大きいような非現実な有限の苦しみ、ということを指している。

 
 このように言われてもあまりイメージしづらいかもしれない。これから、「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」という抽象的で実体がないように思えるものが、もしかすると、現実に生じているようなどんな苦しみよりも、私たちにとってより大きな問題であるかもしれない、ということを示していこうと思う。

 

 

 

無限の苦しみ

 
 まず、仮にある人が「無限の苦しみ」を味わっているとすると、誰もが認めるように、それはすぐに解決しなければならないような問題だ。無限の苦しみは想像を絶するものだろう。無限ということは、この世に存在するどんな苦しみも比べ物にならないということだ。どうすればその人から無限の苦しみを取り除くことができるかについて世界中で考えられるようになるはずだ。

 
 ただ、実際にはこのようなことが起こるとはほとんど考えにくい。無限の苦しみというのは、これまで一度も存在したことがなさそうなものであり、非現実的に思える。苦しみは通常の感覚では有限しかありえず、無限になるというのは、物理的にありえないことのはずだ。こうしたことが起こる可能性を考えるのは、一般的な直観ともかけ離れており、無視してもよいことのように思える。


 「無限の苦しみ」というものは、非現実的だが人間がそれを味わった時の影響が果てしなく大きいという意味で、ディストピアなSFと似ている。例えば、核戦争で地球が破滅したり、人間が宇宙人の奴隷になったり、などである。こうした話は、いくら恐ろしいことだとしても、差し迫った問題ではないということで、実際にそういった出来事が起こることを真面目に想定し対策するということはない。一方で、「無限の苦しみ」の場合は、そうしたSF的なものとは根本的に異なり、いくら非現実的だとしても人類にとって急迫の最重要問題である、ということをこれから示したい。
 
 
 まず、「無限の苦しみ」が起こりそうもない、という感覚は十分に理解できる。具体的に、どのような状況で、何がきっかけでそうしたことが起こるのか、という例はほとんど思い浮かばない。

 
 ただ、誰かが将来、無限の苦しみを被ることになる確率は完全に0である、ということを示すことはできるだろうか。これは少し難しいことのように思える。

 
 無限の苦しみが起こらないことを示すことはできない、というわけではない。実際、無限の苦しみというのは原理的に起こりえないと考える方が、起こると考えるより、よっぽど自然なことだ。少なくとも今のところは無限の苦しみが起こりえないと示す完全な証拠がない。そのため、誰かが無限の苦しみをこうむる確率は、限りなく0に近いが0よりは大きい、とみなすことにする。

 

 ここで、ある人が受ける苦しみの値をX、その苦しみを受ける確率をPとして、このXとPを掛け合わせた値Aについて考えてみる(A=XP)。

 
 まず、有限の苦しみの場合で、Aの値を考える。ある人が、1%の確率で100の苦しみを受け、残りの99%の確率では苦しみを受けない、という状況があるとする。この場合、Aの値は、 A=100×1/100=1 となる。

 
 この場合で受けると想定されている苦しみは、おおまかに言って、100%の確率で受ける1の苦しみと、同じ程度だと見なすことができる。なぜなら、この場合のAの値も、  A=1×1=1 となり、上に挙げた場合のAの値と等しくなるからだ。1% の確率で100の苦しみを受けるのと、確実に1の苦しみを受けるのは、同程度の規模であると言える。

 
 無限の苦しみについても、同様にして考える。

 

 先ほどのように、誰かが苦しみをこうむる確率を、限りなく0に近いが0よりは大きい、と考えるならば、

 

X→∞、P>0 なので、

 
 A=XP→∞

 
となる。

 
 無限の苦しみということを想定すると、いくら起こる確率が小さく、ほとんど0に近いものであったとしても、それが0でない限り、Aも∞になる

 
 この結果をどう受け取ればよいだろうか。

 
 Aの値は、そのPの確率で受ける苦しみが、確実に受ける場合に置き換えられた時のおおよその苦しみの量だとすることができる。例えば、1%の確率で受ける100の苦しみは、A=1だが、確実に受ける1の苦しみと同程度の苦しみであるとみなすことができる。

 
 同じように考えると、0より大きな確率で起こる無限の苦しみは、Aが∞なので、確実に起こる無限の苦しみに置き換えられる。実際、無限の苦しみが100%の確率で起こるとしたとき、Aの値は、確率がほとんど0に近い場合と同じ∞となる。誰かが無限の苦しみを受ける確率が0ではないということは、確実に無限の苦しみが起こる場合と同じくらい深刻な問題だ、と解釈することもできるのだ。

 

 また、1000の苦しみという耐え難い苦しみがあり、さらにそれが確実に起こるする。その場合、 A=1000×1=1000 となる。しかし、1000は∞と比べると、0に等しい。1000が1億であっても1兆であっても同じことだ。拷問で受けるような凄まじい苦しみがどうでもよくなるほど、無限の苦しみは恐ろしいということを意味しているかもしれない。

 
 Aの値が大きければ大きいほど、その苦しみをより防がなければならない、という価値基準があるとする。これは功利主義的な価値観だと言えるだろう。多くの人間は、厳密にではないにしても、このような価値基準を受け入れているはずだ。例えば、50%の確率で起こる10の苦しみと、1%の確率で起こる1000の苦しみがあるとすると、Aの値はそれぞれ5と10だ。後者の方がAの値が大きいので、後者の苦しみをより警戒し、その苦しみを受けないように対策するだろう。日常生活でも、無意識のうちにこうしたおおまかな計算をして比べていることが多いだろう。

 

 この功利主義的な価値観を受け入れるならば、誰かが無限の苦しみを受けるかもしれないということは、他のどんな有限の苦しみより重大な問題だ、ということになる。

 

 通常の感覚では、無限の苦しみという実体のなさそうなことではなく、今実際に生じているような苦しみが考慮に入れられる。しかし、以上のように考えると、そういったほとんど現実味のないことを考慮に入れなければならない、ということになってくる。

 

 


 有限の限りなく大きな苦しみ

 
 今度は、「有限の限りなく大きな苦しみ」について考えてみる。これは、これまで人間が実際に味わってきたどんな大きな苦しみよりも、はるかに大きな有限の苦しみのことだ。ただし、あくまで有限なので、無限の苦しみとは根本的に異なる。イメージとしては、ある個人が味わったこれまでの人類の歴史上に存在した最も大きな苦しみが 仮に100万だとすると、「有限の限りなく大きな苦しみ」は、例えば1兆であったり1無量大数などだ。

 
 無限の苦しみの場合は、まず、苦しみが無限になるということが原理的にあり得るのかどうかが問題となる。もし、無限の苦しみは起こり得ないということを示すことができたなら、この問題は解決するだろう。

 
 一方で、有限の限りなく大きな苦しみというものは、現実にはありそうもないが、有限なので、少なくとも原理的には起こり得ることだ。

 

 無限の苦しみのAの値を考えたのと同じように、この有限の限りなく大きな苦しみのAの値を考えてみる。ある苦しみの値をX、誰かがその苦しみを受ける確率をPとすると、そのAの値は、A=XPとなる。

 
 有限の限りなく大きな苦しみについて考えた場合、Xは非常に大きな値になる。一方で、そうした大きな苦しみは確率的にはほとんど起こり得ないため、Pは非常に小さくなる。「無限の苦しみ」の場合は確率が0か、あるいは0より大きいか、というのは議論の余地があるが、「有限の限りなく大きな苦しみ」の場合は、その確率Pは限りなく小さいが0よりも大きいことは確実だろう。

 

 このときAは、確実に無視できるほど小さい値になると言い切ることはできるだろうか。Aは、非常に大きな値と非常に小さな値を掛け合わせたものであるため、ごく小さな値に収まるかもしれないが、一方で、Pの大きさによっては、非常に大きな値になる可能性もある

 

 ここで、(有限の限りなく大きな苦しみではなく)現実に生じているような通常の苦しみを受ける確率を考える。このとき、大まかには、苦しみの値が小さいほど、それを受ける確率が高く、苦しみの値が大きくなるほど、その確率は低くなっていく、と考えられるはずだ。例えば、切り傷を受けた時に感じるような痛みはよく起こるが、骨折をした時に感じるような痛みは頻繁には起こらない。このように、小さな苦しみほど受ける頻度が高く、大きな苦しみほど受ける頻度が低くなるだろう。

 
 では、今度は、「有限の限りなく大きな苦しみ」の起こる確率を考える。このとき、その確率は非常に低くなるだろう。そして、先の場合と同じように、苦しみの量が大きくなればなるほどほど、その苦しみの起こる確率は小さくなっていくはずだ。

 
 ただ、「有限の限りなく大きな苦しみ」の場合は、その苦しみが増えていっても、苦しみが増えた割合ほどにはその確率は小さくならないのではないだろうか。

 
 経験的に通常の苦しみの場合は、苦しみXが10倍になれば、確率Pもおおよそ1/10かその周辺に収まる場合が多い(1/5、1/10、1/30など)。例えば、切り傷の痛みが10、骨折の痛みが100とすると、骨折する確率は、切り傷を受ける確率のおおよそ1/10かそれより小さいくらいになるだろう。

 
 一方で「有限の限りなく大きな苦しみ」の場合は、苦しみXが10倍になっても、確率Pは1/10倍ほどにはならないはずだ(1/2倍、1/3倍など)。例えば、1不可思議(10の64乗)の苦しみと、1無量大数(10の68乗)の苦しみを想定する。1無量大数は1不可思議の10000倍だが、1無量大数の苦しみを受ける確率は、直感的に、1不可思議の苦しみを受ける確率の1/2か1/10程度に思えてくる。どちらもほとんど起こりえないことだが、あまりにも起こりにくいことのために、どちらも同じ程度に確率が低い、ということだ。

 
 仮に有限の限りなく大きな苦しみが起こるとするならば、その苦しみは特殊なものであるだけに、これまでとは違った形での苦しみとなるはずだ。例えば、私たちが普通に想像するような、病気での苦しみや思い悩む苦しみ、といったものとは違うということだ。 そのため、起こる確率は極めて低いが、もし起こるならば、非常に大きな苦しみも、それよりさらに大きな苦しみも、同じ程度に起こり得ると考えられる。このような大きな苦しみは、起こることがほとんど想定されないようなことだからこそ、かえって、起こるときにはいくらでも大きな苦しみが起こりうるということだ。

 
 例えば、ある遠い星にいる宇宙人が人間の味わう苦しみを自由にコントロールできるようになったとする。宇宙人がある特殊な機械に数値を入力すると、それだけの大きさの苦しみを人間が受けることになるのだ。このとき、宇宙人は「10の64乗」と入力するかもしれないが、同じくらいの確率で「10の68乗」と入力するかもしれない。少なくとも10の68乗と入力する確率が10の64乗と入力する確率の1/10000より大きいことは確実だ。

 
 こうした話を前提にすると、Xの値が大きくなるほどにはPの値は小さくならないので、Xの値が大きくなればなるほど、Aの値も大きくなる、と言える。 

 
 1那由他(10の60乗)よりも1不可思議、1不可思議よりも1無量大数の方がAの値が大きく、より深刻な問題であると言える。これがどこまでも続くとすると、Aの値も果てしなく大きくなってしまうのだ。Xが1兆程度であれば、通常の苦しみと比べてAの値は十分小さいかもしれないが、Xが大きくなれば、やがてAの値は無視できないほど大きくなる。さらにそれがどこまでも続くのだ。

 
 また、仮にそうした有限の限りなく大きな苦しみのAの値が、日常的に受ける通常の苦しみのAの値と比べて小さかったとしても、苦しみのリスクの大きさを考慮すると、依然としてその限りなく大きな苦しみが問題となる場合もあるだろう。


 いずれにしても、有限の限りなく大きな苦しみというのは、無限の苦しみを除けば、現に問題となっているような他のどんな苦しみよりも考慮に入れなければならないほど重大なことなのかもしれない。