思考志向

『「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」』という記事を読んでみてください。

今考え事をしている自分とは別の意識や感覚が、同じ身体に独立して存在しているかもしれない

 これから言うことは、あくまで可能性として想定できるという話であって、現実にはあまり考えにくいことです。その大まかな結論は、タイトルの通りです。


 人間の心の中に表れる感覚、意識などにはさまざまあります。例えば、「今日は傘がいるだろうか」と思考したり、ぼんやりといろんなことを思い浮かべたりする意識があります。また、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚といった五感や、痛い、気持ちいいなどの感覚、楽しい、悲しい、腹が立つなどの感情もあります。(ここで言っている意識や感覚というのは、哲学の用語で言えばおそらく感覚与件とか現象といった言葉で表現できると思います。)

 ここで挙げた意識や感覚というのは、どれも実際に心に浮かぶ、ということで共通しています。例えば、カメラを持つ移動できるロボットがあるとします。カメラを通して障害物の位置を把握して動くことができます。しかし、そのロボットに視覚があるわけではなく、ここで言っている意識や感覚にはあてはまりません。周りの光景がイメージとしてロボット自身に思い浮かんでいるわけではないからです。

 また、無意識は、広い意味で心の一部ですが、実際の意識として心に浮かぶものではないので、ここで言っている意識や感覚には含めません。


 こういった意識や感覚は、すべて一つにまとまっており、それがその人の心、あるいは精神を構成している、と考えることができます。どういうことかというと言うと、意識や感覚がそれぞれバラバラに存在しているわけではないということです。今考え事をしている私には同時に触覚もあります。触覚だけが独自に存在していて、考え事をしている私には触覚を感じることができない訳ではありません。思考や聴覚、視覚、感情などさまざまな構成要素が合わさって一人の人間の心を成り立たせているのです。


 このような考え方をすると、次のように言えるかもしれません。それは、その構成要素のまとまり、言い換えるとその人の心、の中には含まれていない意識や感覚が同じ身体に存在するかもしれない、ということです。例えば、人間の感覚の構成要素が100個あるとします。しかし、100個がすべてまとまっていると考える必然性は必ずしもなく、まとまりを作っているのは99個で、残りの1つはそのまとまりの中に入っていないかもしれません。考え事をしたり、五感や感情を持っていたりする自分の心とは独立した、未知の感覚や意識があるかもしれないわけです。

 というより、同じ身体の中に別の感覚や意識が存在していないと証明するのは難しい、と言った方がいいかもしれません。仮に別の感覚や意識があったとしても、気づくことができないからです。

 極端なことを言えば、仮に石が心を持っていたとしても、なかなかそれに気づくことはできない、という話と同じことです。もちろん、実際には石が心を持つなんてことはあり得ませんが。ただ、人間の場合は、今考え事をしている自分にはない別の感覚が存在しているかもしれない、と考えることができます。

 ただし、実際にそうである可能性は低いでしょう。別の感覚が存在している可能性があるということであって、実際にそうしたものが存在するかどうかは別の話です。


 例として、次のようなものを考えます。それは、実際にいるのかどうかわかりませんが、体の一部に別の小さな生き物がくっついているような生き物です。その小さな生き物には思考などはなく、単純に一つか二つ程度の感覚しかありません。その感覚は、大きい方の生き物の身体を維持したり、行動したりするための補助になる、といった感じです。お互いの感覚は共有されておらず、それぞれ完全に独立していて、その身体の一部になっている生き物が小さいなどの理由で、大きい方の生き物がその小さな生き物がくっついていることに気づくことができないのだとします。そうなると、大きい方の生き物は、その小さな生き物の感じる感覚にも一生気づくことができません。自分の体の中には、自分が感じているもの以外には感覚は存在しないと見なしているわけです。

 仮に、その小さな生き物が大きな生き物の右足のあたりに位置しているとします。歩くときに右足で地面を踏みますが、その時小さな生き物は大きな生き物よりも、よりリアルに地面の感触を感じているかもしれません。それは言い換えると、大きな生き物は自分の身体の中にある別の感覚に気づいていないということです。
 
 たとえ話としては、この大きな生き物が人間にあたります。当然、人間には別の生き物がくっついているわけではありません。ただ、この例を見れば、自分の中に別の感覚や意識があっても気づくことができないという事がどういった感じなのか、理解してもらえるかもしれません。


 もちろん、大きい生き物と小さい生き物の例とは大きく違って、人間には脳は一つしかありません。ただ、一つの脳には、ひとまとまりの一つの心があるだけで、それとは直接的には関わりを持たないような独立した意識や感覚はない、と考える必然性はありません。可能性としては(あくまで可能性ですが)、そのような独立した意識や感覚を想定することができます。少なくとも、脳の仕組みや構造などの専門的なことを考慮に入れる前の段階では、このように言えるでしょう。

 

 


 今度は今考えている自分とは別の感覚や意識の具体例をいくつか想定してみたいと思います。これから書くことは、専門的な知識に基づいたものではなく、あくまで可能性として考えられるという話なので、あまり深くは考えないでください。

 

 まず考えられるのは、今考えている私が感じている以上に大きな感覚が別に存在している、という可能性です。これは、小さな生き物が大きな生き物の右足についているという例と似ています。人間も例えば手がもっと敏感な触覚を持っているかもしれません。


 身体の外側だけではなく、内部にも同じように考えることができます。私たちは普段内臓などの痛みや感覚はあまり味わいませんが本当はさまざまに感覚があるかもしれません。

 

 また、私たちがこれまで経験したことない感覚や意識も同じ身体の中に存在する可能性もあります。例えば、視覚や聴覚などの五感とは違った感覚がないとも言い切れません。

 

 ほとんど考えにくいことですが、自分とは別の思考する意識が、同じ脳の中に存在することも可能性としては考えられます。その中でも比較的現実味があると思ったのは、私たちが無意識と呼んでいるものが、実は私たちの通常の意識とは独立したところに、意識として存在している、という可能性です。


 ここまでは、今考えている自分の心とそれとは別の感覚や意識が完全に独立している場合を考えてきました。そういった場合だけでなく、基本的にはその二つに隔たりがあるが、部分的にお互い結びついている、という場合も想定できます。

 

 例えば、根拠はほとんどなく個人的な想像にすぎませんが、夢がこの例にあてはまる可能性が考えられます。夢は目が覚めた直後は少し覚えています。そして、そのイメージは目が覚めているときに目で見るよりかは鮮明さに欠けています。しかし、実際夢はもっと鮮やかで、今考えている自分には不鮮明なイメージしか受け取れないのかもしれません。自分とは別のところで夢が鮮やかなイメージとして同じ身体の中で生じており、その夢の不鮮明なイメージが目覚めている私にも感じることができる、といったことです。

 

 個人的な経験ですが、夢を見ているときに普段の自分の意識とは違う意識を感じたことがあります。ある夢を見ているときに、「この夢は間を持たせるのにいい内容だ。」という声が聞こえてきました。初めは言ってることの意味が分かりませんでしたが、その直後に目覚めると、深夜の2時ごろでした。本来なら朝まで寝ていたかったので、途中で目が覚めて、少し気が沈んでしまいました。その時に、夢を見ているときに聞いた声の意味を考えてみると、「(目を覚まさせず、ずっと寝続けてもらうためには、)この夢はいい内容だ。」ということだと気づきました。まるで声の主が見る夢の内容を少しだけコントロールする力を持っており、ちゃんと寝られるように気遣っているようでした。

 

 

 でもそもそもなぜ、意識や感覚が存在しているのでしょうか。何か簡潔な理由はあるのでしょうか。高性能なロボットは、障害物の位置を把握してよけて移動したり、人の声を聞き取ったりします。また状況によって適切な判断を行うこともできます。そのロボットには、視覚や聴覚、思考がありませんが、それに対応する機能は持っています。人間や高等動物も同じように、意識や感覚はなく、機能だけがあってもおかしくないですが、そうならなかったのには何か理由があるのでしょうか。また、これまで考えてきたこととは反して、もし一人の人間の中にあるすべての意識や感覚がすべて一つにまとまっているのだとすると、そのようになる理由は何なのでしょうか。こうしたことが深く理解できれば、ここで述べてきたことを判断するヒントになるかもしれません。
 


 いずれにしても、自分とは別の意識や感覚が存在しているというのは、あくまで可能性として考えることができるというだけであって、実際には考えにくい話かもしれません。