思考志向

『「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」』という記事を読んでみてください。

今の自分が過去の自分より正しいとは限らない

 基本的に今の自分と過去の自分は連続性を持っていて、それぞれ同一人物です。これまで生まれてから今まで、自分は一人の人間として成長してきたました。今の自分と10秒後の自分は同じ一人の人間のはずです。名前が「けんた」なら、いつ何時でも自分は「けんた」であって、ある一時だけ「たかし」であった、ということはないでしょう。これはごく自然な考え方です。

 

 ただ一方で、そうではない別の考え方をすることもできます。例えば、「昔の私は私じゃない。」といった表現があります。これは、今の自分と昔の自分は、性格や考え方があまりにも違いすぎるので、別人だと言っています。今の自分と昔の自分は、同じ存在だと言えば同じ存在ですが、見方によっては別人だと見なせられます。

 

 今の自分と過去の自分がそれぞれ異なった存在だという見方を、より突き詰めることもできます。今の自分と1秒前の自分は、完全に同じというわけではありません。体の位置は少しだけ移動しているし、体の内部も血液などが常に動いています。そもそも、同じ時間には存在していません。

 

 このように、現在の自分と過去の自分はそれぞれ別の人間だと見なすことができます。そして、この見方をとることによって、生まれてから今までの自分は連続性を持っているという考え方では見えなかったことが見えてくるようになります。その見えてくることの一つを書いてみようと思います。

 

 

 私たちは過去の自分を蔑むことがよくあります。「昔の俺は馬鹿だったな」というように。これは(過去の)自分を卑下していて、なんとなく謙遜したような表現に聞こえます。

 

 ただ、今の自分と過去の自分が別の存在だとする見方に立てば、少し傲慢にも聞こえます。この場合、今の自分からしてみれば、過去の自分は生き方や考え方が(今の)自分とは少しだけ違う他人です。その他人を馬鹿にしているわけです。謙遜しているような形をとりながら、今の自分の生き方や考え方が正しいということを前提としているのです。

 

 そもそも、「昔の俺は馬鹿だったな」と発言しているのは現在の自分です。現在の自分が、今の価値観やものの見方をもとに、現在と過去の自分を比べて、過去の自分は馬鹿だとしているのです。これは偏った判断でしょう。過去の自分が現在の自分を見ると、過去の自分の方がマシだと思うかもしれません。

 

 過去の自分を他人のようなものとみなすと、「昔の俺は馬鹿だったな」というのは、「あの人は馬鹿だな」という発言と似たようなものと考えることもできます。私たちは自分の考えは他の人より優れていると考えがちですが、それと同じように、今の自分は過去の自分より優れていると考えているということです。

 

 人は時が経つごとに少しずつ賢くなるという常識がありますが、これは(今の)自分は優れているとするちょっとした傲慢さが作り上げた常識ではないでしょうか。必ずしも、今の自分が過去の自分より正しいとは限らないように思えます。