思考志向

『「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」』という記事を読んでみてください。

交通死亡事故を1件防ぐのに6億円くらいの価値がある

 仮に、自分が明日交通事故で死ぬことが決まっているとする。ただ、0円払えば、その事故が未然に防げるのだとする。その場合、いくらまでなら支払うだろうか。

 

 私の場合は5億円は借金してでも払うと思う。5億円払えば、おそらく一生贅沢はできないし、違法な仕事とかしないと稼ぐことも出来ない。(自己破産とかはとりあえずのところかんがえないとして。)それでも、やはり死ぬよりましだから、5億円くらいは払ってしまうと思う。

 

 事故を起こす加害者も、その事故を防ぐためにお金を支払うとする。おそらく事故を防げるのなら、5000万円くらいは支払うのではないか。人を死なせてしまったという自責の念を一生背負っていかなくてはならないし、場合によっては遺族から罵倒され続けるかもしれない。死亡事故なら仕事もやめる必要も出るかもしれない。車で轢いたなら、車の修理代もいる。

 

 それと、自分の親、親族、友人も、その事故を防ぐためにいくらかお金を払ってくれるものとする。私はそれほど人に好かれる人間ではないが、親がかなり出してくれるのではないかと思うので、合計で5000万円くらい払ってくれるのではないかと思っている(願っている)。

 

 それ以外に、例えば被害者、加害者を治療するために必要な医療費。警察の事故の処理や取り調べ、その他事務手続き等に必要な費用や人件費。救急車の費用や救急隊員の人件費。事故が悪質な場合は裁判にかけられるが、その費用。事故現場で道路がふさがれていた場合は、その間に他の車が通れないので、その損失分。どのくらいの費用になるのかは分からないが、かなりの額になるはずだ。国や警察等は、その事故を防ぐために、その分だけのお金を払うということだ。

 

 これらをすべて足すと、死亡事故1件防ぐのに、6億円以上は支払う価値があるということになる。ただ、自分が支払う金額には人によってかなり差があるだろう。自分が80過ぎた高齢者なら、貯金の額によるが、1000万円も払わないかもしれない。

 

 個人差を平均させれば、3億円くらいになるのではないだろうか。(算出根拠は特にありませんが。)それは言い換えると、3億円の税金を投入して1件の死亡事故を防ぐことができるなら、3億円かけるだけの価値があるということだ。

 

 日本での交通死亡事故は年間およそ4000件ということだが、そのうちの10%の400件を減らすためなら、年間1200億円は使う価値がある。10%減らすというのは相当大変なことだが、速度違反の取り締まりをかなり強化させて、免許の基準を上げたり、免許更新の頻度を多くしたり、ということはできると思う。一方で、一般のドライバーの便益が損なわれるので、その分の金額はマイナス勘定しなければいけない。ただ、取り締まりの強化などは死亡事故以外の軽微な事故も多く防げるので、それほど悪い話ではないと思う。軽微な事故でも全体の損害はかなり大きい。

 

 

 こういう考え方は、交通事故以外にも、あらゆることに当てはめることが出来る。例えば、ある重篤な病気にかからないようにするためにいくら支払うかということを考えることが出来る。病気にかかる本人、家族・友人が支払う金額、必要な医療費等を合計して算出できる。

 

 また、精神的な病にかかるのを防ぐために、いくら支払うかということも考えることが出来る。例えば、その病が最終的に自殺につながるような重度のものであったとすると、その苦しみは死を免れたいという思いよりも強いものであるから、交通死亡事故を防ぐことよりも支払う金額は大きくなるだろう。また、その人が働き盛りだとすれば、精神的に健康になり、働くようになることで税収も増える。国民が精神的な健康を手に入れられるような環境を作ることは、それら合計した金額程度には必要なことだと考えることが出来る。

 

 

 ただ、こういうことを考える際に一番問題となってくるのが、財源だ。国民は、「〇〇を防ぐためならいくらまでなら出せる」という風に考えているわけだから、少なくともその金額分の税金は余分に払う価値はあるわけだが、実際に例えば事故にあうということを経験してからでないと、それだけのお金を払う価値があるという考えに至ることは難しいだろう。

 

 そういった現実的な問題はあるが、「〇〇を防ぐためにいくら出せるか」という考え方は、本当はどういうことにもっと税金を投入すべきか、逆に大して税金を使う価値がないものは何なのか、ということを考える手助けになるのではないだろうか。