思考志向

『「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」』という記事を読んでみてください。

理想の社会を実現するには自分はどういう人間になればよいか

 理想的な社会を実現するためには自分はどういう人格の人間になればよいだろうか。ぼんやりとなら、その人間像や人格が思い浮かんでくる。例えば、嘘をつかないとか、人に親切にするなどだ。ただこの記事では、具体的にどういう人間像が社会にとって理想か、といったことに触れるつもりはない。社会をよりよくするために、どういう人間になればよいかを考えるための道筋にはどういったものがあるのかを、抽象的にかつ仮想的に考えてみようと思う。

 

 そもそも理想的な社会がどういうものなのかについては簡単に答えの出るものではないが、仮に特定の理想的な社会像があると仮定して話を進めることにする。ここでは、大まかに誰もが幸福を感じており、苦しみも最小限度である社会が理想だといったイメージでよいだろう。そして、その理想の社会に近づくにはどのような人間になればよいかを考える。

 

 

 理想の社会が定まっている場合の、理想の人格像を定めるプロセスはいくつかの種類が考えられるのではないか。ここではABCの3種類を挙げてみる。

 

A 現実の社会の状況はいったん置いておくとして、「このような人格の人間が増えればよりよい社会になるだろう」という理想のかつ普遍的な人格像を作り上げる。そしてその理想の人格に自分を近づけるようにするというものだ。すべての人がその理想の人格になった場合、最も社会がよくなるように理想の人格を設定する。

 この場合、この理想の人格はだれにとってもおおよそ同じようなものになり、時代によって大きく変わることも少ない。また、理想の社会像と理想の人格像が似たようなものとなる。

 

B 今現在の社会の現状を前提として、その現実に対して自分がどういう人格の人間になれば社会が最もよくなるかを考え、その人格に自分を近づけるようにする。すでに社会で人格を持った人たちが生活している中で、自分を追加の1人とみなす。その追加の1人として、最も社会がよくなるような人格を採用する。

 この場合は、なるべき理想の人格は時代や社会の状況によって流動的になる。また、理想の社会像と理想の人格像に大きくズレが生じる可能性がある。

 

C 上の2つとは大きく毛並みが異なるが、ここではすべての人の人格をすべてコントロールできると仮定する。それぞれの人に種類の異なるさまざまな人格を付与していき、すべての人格の集合を仮想する。その人格の集合を可能なだけの組み合わせをスーパーコンピュータ(?)などを使ってすべて羅列して、それぞれの人格によって作り上げられる社会をシミュレーションし、その中で最も社会が理想の状態に近づく組み合わせを採用する。あるいは、すべての組み合わせをシミュレーションしないまでも、それぞれの人の性質を考慮しながら、最も理想的な社会が実現される人格の組み合わせを複雑な計算によって導き出してもよいかもしれない。

 

 

 Cは、社会を理想的な状態にする最も効率的な方法の1つを試しに考えてみたというものであって、非現実的なことなのであまり考えないことにする。AとBは、現実の社会でもこれと似たような考え方がされているのではないだろうか。

 

 AとBの違いが分かりにくいので、社会を超巨大な船、社会に生きる人々をその船の乗組員としてたとえてみる。船は転覆せずに安定していられることが理想だが、最も船が安定的な状態が社会の理想像とする。乗組員たちは船の上のそれぞれの場所に立っている。もし、乗組員が船の片側に偏って立っていると、船は傾き安定しない。

 

 まずAの場合を考える。全員が船の中心付近に集まると船が安定するということを考えると、船の中心にいることが理想ということになる。このとき、他の乗組員がどこにいるのかはあまり関係ない。

 

 Bの場合は、すでに他の乗組員が立っているわけだが、その乗組員たちがどこにいるかを見て、乗組員が多くいるところとは反対の最も船のバランスがとれるところに立つことが理想ということになる。もし他の乗組員が移動し始めたら、自分も動いて船が安定するように調節する必要がある。Aは理想の人格像がほとんど変わらないものであるのに対して、Bは時代や時と場合によって変わる流動的なものだといえる。

 

 Cの場合は、これから来るであろう波や風雨をすべて計算し、乗組員の体重や重心も考慮した上で、それぞれの乗組員の配置がどうなればよいかを導き出してゆく。あるいは乗組員のあらゆる配置のパターンをすべてシミュレーションして、最も安定的な配置を採用する。このとき乗組員が中心に集まるのか、ある程度散らばるのかは計算をしてみなければわからないだろう。

 

 

 この船のたとえを使うと、より船の安定に貢献してそうなBがより正しいような印象を受けるが、Bにも難点がある。もし社会の理想が真ん中にあるとして、多くの人は右に偏っているとする。社会の理想が真ん中なのだから個人の人格の理想も中心に近いところにあった方がよいはずだ。しかしBの場合は、バランスをとるために極端に左に偏る必要があり、社会の理想と大きくズレた人格を保つことを強いられてしまう。例が適切かどうかわからないが、今の話を政治的な右派と左派でイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。

 

 現実の社会では、このAとBの両方の要素が混ざっていることが多いだろう。教育の世界ではA的な考え方に基づいていることが多いような気がする。個人のレベルで、どういう行動をするべきか、どういう人間になればよいかを考える時には、どちらかというとB的な考え方をしていることが多いのではないだろうか。