思考志向

『「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」』という記事を読んでみてください。

過去の苦しみに対する過小評価

 私たちは過去に感じた苦しみを過小評価しがちだ。そのときは非常に苦しくても、時間が経てば忘れて、その苦しみも大したものではないとみなしてしまう。楽しいときは平然としているが、似たような苦しみに襲われれば、これほど苦しかったのか、とまた思い出す。

 

 このことについて、マラソンを例に出して考えてみる。軽いジョギング程度ならまだしも、競技としてのマラソンはかなりしんどい。本気で走ればマラソン中はかなり苦しく、走り終えれば達成感や健康が手に入る。全体で見れば喜びよりも苦しさの方が大きい場合も多いだろう。ほとんどしんどいことばかりだが、それでも多くの人がマラソンを走っている。その理由はさまざまあるはずだが、1つはマラソン中に感じる苦しみを忘れてしまうことがあるのではないか。走っている最中は本当に苦しいが、走り終わればその苦しさは忘れてしまう。一方で、健康や鍛えられた体力、マラソンを走りきったという事実はそのまま現存する。そのため、苦しみを過小評価し、またしんどいマラソンを走ろうと思うようになるのではないか。(マラソンを否定する意図はない。私も走るのは好きだ。)

 

 

 これと同じことは、日常にも多くある。すごく苦労して大したものしか得られなかった場合でも、その苦しみを忘れ、得ることができたほんの些細なことばかりに気を取られてしまう。

 

 例えば、仕事などで苦労を多くしても、その苦労によって成長できたとする考え方がある。ただ普通は、成長出来たことによる喜びや利益よりも、苦労の方がよほど大きいはずだ。それでも、困難が去ったあとはその苦しみを忘れて、得ることのできた成長にしか注目しなくなる。これは良い意味でも悪い意味でもポジティブだといえる。

 

 その困難が自分ではどうしようもないものであれば、成長できると考えることによって精神的に楽になることができる。その困難なことにも意味ができるので、それは本当に良いことだろう。

 

 一方で、苦しみを適切に認識できずに、過去に味わったような困難を自ら再び選択してしまったり、人にその困難を与えてしまったりするならば大きな問題だろう。

 

 困難さを正しく認識した上で選択するならば全く問題はない。しかし実際は、苦しさを甘く見て自ら困難な道に進む場合が多いような気がする。

 

 また、「若い頃は自分も苦労した。その苦労によって成長できた。」などといって、困難を他人に課す人もいる。厄介なことに、本人は本当に相手のことを想って言っている場合もある。本人はその若い頃の苦しみを忘れているだけで、今自分が同じように味わったら、その困難を否定するようになるかもしれない。困難によって得られる成長は、その苦しみと比べたらほんの小さなことだろう。