思考志向

『「無限の苦しみ」と「有限の限りなく大きな苦しみ」』という記事を読んでみてください。

自分とは比べ物にならないくらいはるかに賢い人がいるかもしれない

 人と話したり、本やネットの記事を読んでいると、たまに「この人頭いいな」と思うことがあります。その人は、自分が思いつきもしなかったような奇抜な考えや、豊富な知識や経験に裏打ちされたような主張を持っています。私はそういう人をみると、世の中にはこんな賢い人がいるのか、と感心します。

 

 しかし、その人たちは、客観的な事実として頭がいいとされているわけではありません。ただ、私が頭がいいと見なしているだけです。もし、その人を賢いと判断している私自身の頭が悪ければ、その判断はあまり信用できるものではないでしょう。

 

 そうすると、自分には認識できないような、とてつもなく賢い人がいるかもしれない、と考えられるはずです。私の頭のレベルが大したことないから、私より少し頭のいい人しか認識できず、とてつもなく賢い人に気づくことができないのかもしれないのです。ただ、その自分とは比べ物にならないくらい賢い人には気づくことができないので、その実感は湧きにくいでしょう。そのため、普段はなかなかそのようなとても頭のいい人を想定することはできません。

 

 成長していくにつれ、これまでは気にも留めなかったような人の賢さに気づく、ということがたまにあります。昔は、「何かよくわからないようなことを言っているな」と思っていただけなのが、自分がそこそこ賢くなると、初めてその人の頭の良さに気付きます。

 

 このような経験は、かつて経験したことがあるというだけのことではなく、原理的にはこれから先もいくらでも起こり得ることです。いくら自分が賢くなっても、自分には気づけないような非常に頭がいい人がいるかもしれません。極端なことを言えば、仮に地球上で最も賢い人間になったとしても、とてつもなく頭がいいような宇宙人を想定することができます。

 

 

 世間一般で頭がいいと言われている人がいますが、そうした人にも、本当に賢いかどうか一度疑いの目を向けてみてもいいかもしれません。その人たちも、頭が特別いいわけでも悪いわけでもないごく普通の人たちに評価されているだけなのです。もっと頭のいい人たちが幾らでもいるにもかかわらず、世間一般の人たちは、その存在に気づいていないのかもしれません。だから、世間で頭がいいと言われている人たちが本当の意味で賢いかどうかは分かりません。そのため、一般には賢いとされている人の言っていることも正しいとは限らないのです。言っていることが正しいかどうかは、そのまま受け入れるのではなく、各個人が判断することでしょう。